物書きの物置き

物書きなので、物語を書いて並べます。

娯楽

 人は面白さを感じることで生きている。面白さを感じなければ死んでいるのかと言われれば、死んでいるんだろうとぼくは返す。人は生きるために娯楽という文化を生み出したのだ。

 娯楽は大衆文化だと言われる。かつて日本にエリートと大衆という棲み分けがあった頃、仕事に勤しむ人間たちが、生活に楽しみを作るために生み出したものだ。映画やテレビ、野球、演劇や小説、近年だとマンガもそうだ。違う世界を感じられ、そこに浸れる世界観を提供してくれるものを人は手元に置き、暮らしてきた。生欲以外の余計な意識を持ってしまった人間にとって、ただ現実を生きるだけでは辛いのだ。だから現実から逃げながら、自分を騙して生きていく必要がある。夢を見て、その夢に浸って生きていけるのならそれがいい。立ち止まらずに生きていけるから。ツイッターのトレンドを引っ張っている人たちは、大半がそういう生き方をしているらしい。

 ぼくは自分の体が好調か不調かを「見ているものの中に面白さを感じるかどうか」で判断している。調子が良いときは、渋滞で目の前に割りこんできた車を見ても、その運転の上手さに思わず笑ってしまう。悪いときは好きなマンガを読んでも途中でつまらなくなって閉じてしまう。

 ぼくは生きるために自分や両親が死ぬ想像ばかりしてきた。それによって培われた想像力をもって、これからは面白いことを考えて生きたいと思う。今はそれを娯楽にする能力がほしい。

又吉直樹著『第2図書係補佐』を読んで19

今回は、『中陰の花』の内容について。

 

又吉さんが35歳になった世界を生きているぼくにとって、この内容は興味深かった。

 

『中陰の花』には、個性的な占い師が多く登場するそうで、今までに又吉さんが会って来た占い師とのエピソードが書かれていた。

 

見た目で判断する占い師、住んでいる環境から判断する占い師、「35歳・・・あっ!」と声を出し何事もなかったかのように振る舞う占い師などなど。

 

個人的には「君は優しい」を連呼する占い師を『占い師の癖に副担任みたいなことを言う奴』と書いていたのがツボだった。

 

生徒との距離感が近くも遠くもなく、印象に残ってない生徒に対して言うことがあまりない状況に陥った副担任のあるあるを表した面白い一文だと思った。

 

話は変わるが、35歳になったとき又吉さんは『火花』で芥川賞を受賞している。

 

前述の占い師に「偉人か犯罪者になる」と言われた彼は、偉人になった。

 

前々からの文章を読んで又吉直樹という人物に理解が深まっているぼくは、『第2図書係補佐』とは別の一冊の名著を読んでいる気分になってきた。

 

又吉直樹という人間の人生における浮き沈みを見ながら、安堵とある種の不安を抱いている。

 

だが、自分の人生の筆は自分で取るしかないのだ。

衰弱

 「歳を取って体が言うことを聞かなくなるなぁ」というぼやきは、よく聞いたことがある。ぼく自身もそれを自分に感じることがよくある。つい1年前まで平気で徹夜ができていたのに、いつの間にか徹夜した翌日は1日何もできなくなったし、前より長く眠るようになった気もする。1日何も食べないと、これもまた翌日動けなくなる。それは別の話かもしれないが。

 最近の自分の衰弱具合について思うのは、ただの運動不足ではないかということ。寝つきも寝起きもよくないし、長風呂をすれば息切れする。目の下のクマが消えない。体力が衰えてきているのだと思う。運動をしなければならない。現状の自分の体調に危機感を感じているのは、体力が衰えると面白さを感じる力も衰えるからだ。物事を面白いと思えるためには、やはり自分が健康でなければならない。二日酔いに苦しめられているときに、この映画が面白いよと言われたところで「楽しめるか!」と返してしまうはずだ。面白さとは、それを楽しめる体力があるからこそ受け入れられるもの。なんだか最近気力がわかないのもそのせいだと思っている。何かのせいにするのはよくないかもしれないが、ぼくは体調の悪さをだいたい寝不足か運動不足のせいにしたい。

 問題はどうやって自分に運動を始めてもらうかだ。生活から運動がなくなってしまい、自堕落になってしまった自分に運動をすすめるのは容易ではない。まずはプロテインでも買おうか。

又吉直樹著『第2図書係補佐』を読んで18

今回は、『螢川・泥の河』の内容について。

 

文末に書かれた本の紹介を読んでから本文を読み返すとまた面白い、そんな文章だった。

 

『螢川・泥の河』は、又吉さん曰く「少年の成長と人間の生き様が刻まれている」らしい。

 

今回の紹介文の内容は、たしかに少年の成長と人間の生き様が刻まれている内容で、想像を膨らませて考える要素もあって面白かった。

 

又吉さんが少年だった頃、ヌンチャクを買って友達と遊んでいたことがあったそう。

 

それに飽きた頃、父親の同級生だった比嘉さんと、家族で同居することになった。

 

同居生活をしていたある日、比嘉さんが入っていると知らずにトイレを開けてしまったことがあり、「ワッサイビーン!」と言われた又吉さん。

 

怒られていると思っていたある日、普段物静かな比嘉さんが近所の神社でヌンチャクを振り回していた。

 

「子供にお尻を見られてフラストレーションが溜まっていたのか・・・」と解釈して申し訳なくなった又吉さんだったが、後日「ワッサイビーン」の意味を知って勘違いだったと知ったそうだ。

 

「ワッサイビーン」は「ごめんなさい」を意味する方言らしく、又吉さんは冗談っぽく「大きなお尻でごめん、だったのか?」と書いていた。

 

だが、トイレの鍵を閉め忘れて人に開けられてしまったとき、たいていの人は「すみません!」と言ってしまうのではないかと思う。

 

比嘉さんが思わず方言で言ってしまったのも、とっさに「鍵閉め忘れててごめんよ」と思ったからなのではなかろうか。

 

又吉さんは文末で比嘉さんに対して「やっぱり優しい人だったのだ」と書いていた。

 

後日ワッサイビーンの意味を知った又吉さんは、「トイレのドアを開けてしまったぼくに対して怒るのではなく、自分の非を謝る行為をとっさにやってしまう比嘉さんは優しい人だったんだな」と納得したのだと思う。

 

また、比嘉さんが熱心にヌンチャクを振り回していたことに対しては、言及されていなかった。

 

比嘉さんはもともとヌンチャクを扱う武術をしていたのかもしれないし、もしくは又吉さんの家でヌンチャクを発見し、又吉さんと仲良くなろうと思ってヌンチャクの練習をしていたのかもしれないなと思った。

 

文末で「優しい人だった」と書いていたため、後者なのかもしれない。

 

この文章を読んだあとに「人間の生き様」と書かれていたため、「半裸でヌンチャクを振り回す体の大きな比嘉さん」の姿を想像して笑ってしまった。

 

人の配慮や優しさを飲み込んで成長していく少年の姿と、同級生の子供と仲良くなるために努力する大人の姿が見える面白い文章だった。

文章

 良い文章を読むことで、書く文章は歳を取るのだと思う。もし文才というものがあるのなら、それを上げる方法はそれしかない。

 幼い文章が何かを伝えることは難しいし、人の心を動かすこともできない。それは言いたいことを満足に言えない子供と同じようなものだ。話し言葉と同じように、書き言葉もより多くの語彙を習得することで伝え方が自由になり、用法を多く知ることでよりユーモアのある文章が書ける。文章が歳を取るというのは、そこに配慮が含まれること。より内容が深くなること。シンプルになること。端的な言葉のなかにより多くの逡巡や思考が入るようになること。書き方が増えること。そういうことだと思う。

 良い文章とは何だろうか。ぼくは最近読んだ小説の文章がそうだと感じた。その文章を読むと、書き手が記した映像が読者の頭のなかに思い浮かぶのだ。それは確実に伝えたいことが伝わっている文章である。文章とは本来、物理的に離れた人に何かを伝える手段であるため、文字なのに映像を届けられるというのが文章のひとつの終着点だと考える。

 ぼくが今まで読んできた小説は、若い文章が多かった。とくに好んだのはライトノベルのような文字通り軽い文章だったので、文章が歳を取らなかった。今になって、昔に書かれた名著を読める土壌が出来上がったので、良い言葉たちを取り込みながら良い文章を書いていきたい。