優しさとは、自殺する友人の最後を見届けられること
こんにちは。
先日、友人と優しさとは何かという話をしていたので、そのときに話していた内容を書いていこうと思います。
みなさんは、優しさとは何だと思いますか?
例えば、同棲してる彼女のために料理をするとか、記念日はちゃんと覚えておいてプレゼントをあげるとか、相談に乗ってあげるとか、人の間違いを正してあげるとか、そういう『人のために動けること』が一般的な優しさなのではないかと思います。
ただそれらの行為って、自分の思考の押し付けでしかないと思うんですよね。
何かあげるにしろするにしろ、話を聞くにしろ、導くにしろ、それらはそもそも自分のためにやる行為だと思っています。
自分のために、相手との関係性を保つ手段で、何かしらの対価を必要としている行為なんですよね。
そしてかつ、安全な立場からの施しです。
そんなものを優しさと呼ぶのなら、この世に優しさという概念はなくていいと考えます。
ぼくは、本来優しさというものは、無償に与えられるものであり、相手の主張・意思を最大限に尊重した行為が、優しいものだと感じます。
極端なことを言えば、自分の友人が自殺する時、そばで最後を見届けることが優しさです。
自殺をする友人を引き留めるのは自分の都合でしかなく、相手の苦しみを理解していない発言です。
かといって同じ人間ではないので、その苦しみを理解することはできない。
だからぼくは、相手が苦しみから逃れる選択を取ったなら、それを受け入れて別れを告げることができる人間でありたいと思います。
そして、それを話してくれた友人に対し、自分は、少なくとも自分だけは最後まで友人であったと、言葉でなく行動で伝えたい。
ずっと孤独だったその友人に、せめて自分を見てくれる人がいたと思ってもらえるよう、最後を見届けられる人でありたい。
それが自殺幇助だと言われようが、見殺しにしたと言われようが、それが優しさだと思うから。
ぼくにとっての優しさとは、そのくらいのものなのです。
だから軽々しく振りまけるものではないし、軽々しく「自分って優しいでしょ」と口にするべきものでもない。
優しさのまがいものは、人を、人の気持ちがわからない人間にしてしまうから。
人のために動く、人の気持ちを考えるなんてことは当然であってほしいし、いちいち優しさというラッピングをすべきではないのです。
承認欲求を得るための材料にするべきでもありません。
だからぼくは優しさを上記のように定義します。
そんな優しさが世界にあふれて、人の意思が尊重されるようになれば、もっといい世界になると思うから。