創作人の面白研究所分室

FunnyからInterestingまで、あらゆる"面白さ"を分析するブログ。何がどう面白いのか、なぜ面白いのかについて解説していきます。分室なので、たまに関係ないことも書きます。

「相手のためを思って」という発言や行為は、それによって引き起こされる出来事すべてに責任を取れない限りすべきではない

こんにちは。

 

ぼくには嫌いなものがありまして、それは「あなたのためを思って」という前置きのもと、自分に向けられる発言や行動です。

 

こんなに鬱陶しいものは他にありません。

 

これらはこちらの都合や心境を理解されない上で向けられるもので、自分の善意を満たすためだけに行われるものだからです。

 

ぼくがそう思うようになったきっかけは、ぼくの親にあります。

 

ぼくの親は、過保護な人たちでした。

 

ぼくたちが傷つかないように、困らないように、負担がないように、負の要因から隔離し、自分たちがいいと思うことだけをさせるという子育てをしていました。

 

ぼくは、檻で飼われているような気分でした。

 

そして大学生になり、1人でいろんなことをやっていく必要がでたときに、自分は何もできないなと実感しました。

 

それは、今までの生活に関する用事全てを親がやってきたからです。

 

ぼくの親は常々ぼくに「お前のためにやっている」と言っていましたが、ふざけるな、何が俺のためになっているんだ、と思いました。

 

もしも過保護に子供を育てるなら死ぬまで手元におく保証をするべきだし、檻で飼われているなど思わせず、外の世界を知らずに幸せだけを感じて生きさせるべきです。

 

それができないのであれば、それは相手のためになっていません。

 

とはいえ、ぼくも自分の友人や周辺のひとたちに、そういう相手のためを思った言動をしてきました。

 

例えば、「困ったら話を聞くよ」と、過酷な家庭環境にあった女の子に声をかけました。

自分の手に負えない問題を抱えているとわかると、自分から距離をとりました。

 

例えば、人に迷惑ばかりかける後輩の気持ちを知ったふりして、「俺はお前の味方だよ」と言いました。

その後輩の行動を肯定するのが面倒になると、自分から離れました。

 

例えば、泣かされた友人の話を聞きながら、「それは許せない。ぶっ殺してやる」と言いました。

結局、涙を流しただけでした。

強くなろうと筋トレをしたものの、友人を泣かせた奴らを殺すどころか、立ち向かうこともしませんでした。

 

そんな経験を経て、「相手のために」する行為は、軽々しくできるものではないと知りました。

 

相手と同じような境遇を経験し、相手の苦しみを相手と同じくらいに感じ、相手の抱えている問題を解決できるような力をもっていなければ、相手のためになるような行動はできないのです。

 

そこまでできなければ、自分の言動によって起きたことに責任を取れたとは言えません。

 

中途半端に相手に救おうとして離れるのであれば、最初から関わらない方が相手のためです。

 

偽物の「相手のためを思う言動」が生み出すのは、やった方の優越感とされた方の悲しい気持ちだけです。

 

相手を思う言動をするならば、それなりの覚悟をもちましょう。

 

覚悟をもたず人に近づいた自分を、ぼくは一生許すことはしないし、その罪を背負って生きていきます。