物書きの物置き

物書きなので、物語を書いて並べます。

逃げ出した男

 世の中には、見守られて育った大人とそうでない大人がいる。小さな広告代理店で働くその男は、見守られてこなかった方の大人だ。少なくとも本人はそう思っていた。それは見放されていたのかと言われればそうではない。なぜなら彼は自分を不幸だとは思っていないからだ。突出した特技はなく、得意なこともよほど好きな趣味もない、”普通”を絵に描いたような男だが、彼は上司にも部下にも友人たちにも恵まれている。日々の会話もそつなくこなし、飲み会ではちゃんと輪の中にいる。だが彼には、ある大きな悩みがあった。それは、人に頼れないことだ。会社に入って数年経つが解消されない悩みを抱えて、今日も借りてきた映画を観ながら家で一人ご飯を食べている。

 その映画には、親代わりの大人が子供をひっぱたくシーンがあった。何度言っても自身の命を脅かすことをやめない子供に対する、親としての最終手段。彼はそのシーンに、巨大な愛で包まれる子供の姿をみた。そして自分を重ねた。果たしてそのように叱ってくれる人が周りにいただろうか。...いた。あの人たちは僕に愛をくれていた。それを拒絶したのは僕だ。自分が傷つくのを恐れて、いつか裏切られるのが怖くて逃げ出したのは僕だと思った。同時に彼はもったいなさを感じた。あのとき愛を受け取って、自分を見守ってくれていることを分かって育っていれば、周囲の人たちを味方だと思えたはずだ。純粋に人を信じ、頼ることができたはずだと後悔した。そして、僕はずっと誰かに見守ってほしかったのだと悟った。

 だがもう、誰かに見守られるような歳ではない。自分で物事を決断していく立場でもある。しかしせめて、映画にみたあの大人のような愛を、たとえその片鱗でも自分のなかに持ちたいと思った。だから、これから身近な誰かを見守ってみよう。心配してみようと密かに決めた。記憶の中の幼い自分が、ちょっとだけ笑顔を向けてくれた気がした。