物書きの物置き

物書きなので、物語を書いて並べます。

自分を大事にしてあげてみよう

こんばんは。松田です。

中二の6月だった気がします。

塾で授業を受けていたあのとき、ぼくはノートの上の端に書きました。

 

『お前は一人だ。』

 

自分がしんどくたって、誰も気にしちゃいねぇよ、というのを自分に言い聞かせてたわけです。たぶん。

 

もともと感情を言葉にするのが苦手なので、気づいてもらう努力もできないんですよね。たぶんですけど。

 

だから、自分は一人だと思い込むことで、その努力から逃げようとしたわけです。

実際逃げてきたんですけど。

 

そりゃあね、親も気づかないわけです。
そもそも1日に2言くらいしか話をしなかったし。

 

そうして人には頼れないと思い込んできて7年ほど経ちまして、気づけば自分に「死ねゴミクズ」か「殺すぞカス」か「いいから早く殺されてくれ」しか言えない人間になりました。

残念ながら。

 

『自分が好き』なんてありえない。

 

この世にいないのが当然の人間なんだと思ってきました。

 

でも、昨日読んだ『うつヌケ』という本にこんな言葉がありました。

 

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↑この本です。

15名のうつになった原因と、それをどう治したかという解決策。

そこから導いた、うつになったときの対処法、精神科医的視点でのうつの治し方が、マンガでわかりやすく描かれた名著でした。

 

載ってたのは「自分を他人だと思うことで、優しくできる」という言葉。

 

なるほどなぁと、納得しましたね。

 

やってみると、たしかに優しくできるし。

 

 

 

自分を自分だと思うから、ぼくの世界には常に自分しかいないんだなと。

 

自分を他人だと思えば、ぼくの世界には他人しかいないんだなと、気づきました。

 

自分は一人だけど、他人は70億人くらいいるので、『自分は他人』と思うだけで、ぼくの世界は広がった気がしました。

 

ぼくはけっこう、気分の浮き沈みが激しい方だと自覚しています。

 

しかも、わりと攻撃的なほうが多いです。

 

でも、ぼくが攻撃的なのは、ぼくがぼくを守ろうとしてるからなんです。

 

人に近づきすぎて傷ついたトラウマがあるから、2度とそうならないよう、自分が不安定なときはなるべく人を遠ざけようとする自己防衛なんです。

 

その、守ってくれてた自分がおそらく本当の自分なんだと思うんですが、今日をもって解任です。

 

「ぼくと君は他人同士だから、これからは好きに生きてくれ」と、お別れをしました。

 

トラウマなんて、もう一回同じように傷ついてみれば治ると思うので、できる限り人に近づいてみようと思います。

 

あとぼくは、めちゃくちゃ被害妄想をします。

 

自分を傷つける可能性をすべて予測して身構えて、来たと思えば速攻で反応します。

 

だから、人の言葉は99%悪い方にとって、そこから想像をふくらませます。

 

しかも相手の細かい仕草にいちいち気づくので、人と話したあとに、相手の言葉と仕草を悪い方に考えて想像をふくらませて、それを100回くらい反芻するので、どんどん気分が沈んできます。

 

大変申し訳ないのですが、超ネガティブなんです。

 

それがあるから、人が苦手なんでしょうね。

 

この世の誰もが自分を傷つける存在なんだと思ってましたし、もしかしたら今も思ってるかもしれません。

 

まぁ、そんなことに積極的になれるほど暇な人間なんていないのは理解してるんですけどね笑

 

とはいえ、自分がいつまでも自分を傷つけているからこそ、それが自分のなかで当たり前になって、いつの間にか人も同じだと考えるようになるわけです。

 

だから、自分を他人だと思って「まぁまぁまぁ」と言い続けます。

 

あとは「とりあえず、この世で一番近くにいるんだし、せっかくだから仲良くしようぜ?」とかね。

 

ぼくの中の他人のそいつは、いつもほしがってた言葉がありました。

 

ぼくはその声を無視して罵詈雑言しか浴びせてきませんでしたが、これからは、ほしがってる言葉をあげようと思います。

 

あとご飯もちゃんと食べてあげようと思いました。

 

1日におにぎり1個で記事を書き続けて、誰とも話さず1日を終えるとかどう考えてもしんどいですし。

 

それがあって初めて、そいつはいい仕事をして、いい人生を歩んでくれるんじゃないかと思うので。

 

とりあえずは、そいつの一番の応援者のような気持ちで、これからそいつがどう生きるのかを見守ってみることにしました。

 

「お前がどんな選択をしようと、俺は応援してるぞ」ってね。

 

この世で唯一絶対的に信頼してる親友が言ってくれた言葉ですが、他人の自分がもっともほしがってた言葉です。

 

この言葉がこれからも、他人の自分を守ってくれることでしょう。

 

あとはこうして自分との信頼関係を作ったうえで、いろんな責任を果たしていくだけです。

 

まずは早起きして、写真を撮りにいって、記事を仕上げよう。

 

あ、あとそうだ。

 

「思い出が自分を幸せにしてくれんのか」っていうのも忘れずに。

 

自分を幸せにしてくれるのは目の前にいる誰かと、ある何かでしかないし、幸せにできるのもまた然り、と。

 

これを忘れると道に迷うので、これも忘れずに生きます。

 

というのが、ここ3日くらいで考えたことと感じたことでした。

 

記事にしたのは、

自分の考えをまとめたかったのと、

自分を正しく知ってほしかったのと、

この考えを発信することで、ある種の踏ん切りをつけるためと、

これを読んで

「こんな恥ずかしいことを平気で人前で言えるヤツがいるなら、自分はまだ大丈夫、自分はまともだ」と思ってもらえたらいいなと思ったからです。

 

自分に刃物を向けない限り、人間はまともです。

 

自分に刃物を向け始めると何かが狂ってきてる証拠なのですが、「他人に刃物を向けちまったぜ」と思うとまともな思考に戻ると思います。

 

戻らなかったら、まぁ、仕方ないですが。

 

まぁそんな感じです。

 

あ、あとそうだ。

 

他人からの愛を感じられるのは才能だと思いますよ。

 

ぼくはできませんが、できる人は本当にすごい。

 

その才能があれば強いし、生きていけます。

 

だから大丈夫。愛を感じられれば大丈夫。

 

感じられなければ、自分を他人と思って優しくしてれば感じられるようになる、はず。

 

それもこれから、自分で実験してみます。

 

ここまで長々と書きましたが、ぼくは、もしかしたらうつじゃないのかもしれません。

 

でも腕に自分で切った傷があるので、うつだったのかもしれません。

 

ときどきナイフで自分を刺すイメージをするので、今もうつなのかもしれません。

 

ただ、精神疾患に関して思うのは、精神疾患が人間を知るための研究対象になりうるのではないかということ。

 

もちろんすでに研究はされていると思いますが。

 

だってね。

 

鬱になると存在価値がなくなるとか、鬱になると死ななきゃいけないとか、そんなの悲しすぎるじゃないですか。

 

鬱になったら、人類の進歩に役立てるくらいに思える方が、もっと楽にうつになれるじゃないですか。

 

人の役に立てるじゃないですか。

 

死ななくてもいいじゃないですか。

 

だからいつか、うつに価値がつく日がくればいいなと思います。

 

そんな感じです。

 

それでは!