『雨に唄えば』
どんな人生も彩る装飾って何だろう。
誰もが共通して楽しめるものって何だろう。
価値観が多様化した今、その問いへの答えを決めつけることはできないが、20世紀当初はどうだっただろうか。
例えば恋、夢、踊り、音楽、映画などの娯楽、傲慢な人間の不幸、そんなところが人の楽しみだったのではなかろうか。
それらに関して言えば、現代でも人の活力となり、バラ色の人生を送らせてくれるものとしていつの時代も変わらず人々に楽しまれているはずだ。
初めて人を好きになったときは、毎日が今までにないほど楽しかった。
その子に会えるだけ、というより見かけるだけでハッピーになれた。
しかも当時は、好きな子の写真を勉強机に置き、それを見ながら勉強していたので、それで土日を楽しく過ごしていた。
通学路にその子の家があったので、登下校時は家を眺めながらその子を想った。
マンガや小説の登場人物に憧れるようになると「その子を守れるように強くならねば」と思って努力した。付き合ってはいない。
大変気持ち悪いことは承知しているが、若気の至り、もとい若気の極地として水に流していただきたい。
ウブでピュアな純朴ボーイにとって、初めて恋をしたときの衝撃やウキウキは半端じゃなかったのだ。
好きな子の、自分に対する行動の意味を深読みしたり告白して振られたりしたときの落ち込み様もまた半端ではなかったが、その分楽しかった。ぼくだけ。
好きになられた子は不愉快だったと思う。それは大変申し訳なく思っている。
それが童貞・松田和幸という生き物だったのだと納得していただけると幸いだが、地獄に落ちろと念じていただいても構わない。
ついでに言うと、ぼくは人を好きになると、相手とほぼしゃべっていないのに、関係構築をしていないのに突然告白するという、全女性に気持ち悪がられるタイプの男だった。
あの人たちが望むなら、地獄で延々に石を積む刑に処されても構わない。
まぁとにかく、恋をすると我と他人を忘れるほど楽しかったのだ。
ほかにもぼくは、ゲームやマンガやアニメをおもに楽しんで生きてきた。
人と関われないときは小説やマンガの世界に飛び込むことを楽しみにしていた。好きな小説は手にもって歩き、隙があれば読んだ。
友達の誰もが週刊少年ジャンプを読んでいる中、ぼくは一人で週刊少年サンデーを待ちわびて、早く水曜日がこないかなと思っていた。
サンデーに載っているマンガの感想を、大事に胸にしまってきた。好きな小説やマンガにいつも笑わせてもらった。どんなに家庭内が冷え切っていても笑わせてくれた。
暇なときはアニメのワンピースを見ながら「いつかロロノア・ゾロ」のようになりたいと思い、竹刀と木刀で3刀流の練習をしていた。彼は夢をもたせてくれた。
ゲームをしていると辛い現実から逃げられた。
やはり男女の恋愛をテーマにした娯楽や、純粋に人を楽しませるために作られたものは人を幸せにしてくれる。
心が跳ねたり感動したりすれば、それだけで気力が湧いてくるというものだ。
『雨に唄えば』という作品は、エンターテイメントの真髄を捉えたような作品だった。
1920年代、映画が白黒無声から有声に移り変わる時にフォーカスをした作品で、当時の人たちが面白いと思う要素のすべてが込められていた。
「人を楽しませたいのだ」と語る製作者の鼻息が聞こえてきそうな作品だった。
初めて、人が映画館で声をあげて笑っている光景を見た。ぼくも混じって笑っていた。
「雨が降っているから気をつけて帰ってね」
「雨?僕には太陽が燦々と輝いている様に見えるよ」
主人公たちのこのやりとりが、この映画を表している。
今日から8月2日まで、パレット久茂地の映画館で公開されております。