物書きの物置き

物書きなので、物語を書いて並べます。

背中

 映像制作をしている親友がいる。彼は高校時代、文化祭のCM大会で映像制作をしたことをきっかけに才能が開花し、大学時代はVJとして数々の箱を沸かせながら果ては武道館でVJをしたそうな。ぼくから見ると、彼は本当に自分の好きなことをやっているのだと思うし、彼もそう自負しているところがあるらしい。

 先日、帰省した際に、彼の実家を訪れた。そこに彼はいないのだが、彼のご両親と夕食をともにした。そこで彼がどれだけ素晴らしい人間かと、ぼくの視点から伝えてきたわけであるが、そのとき幼少期の彼について聞いてみた。なぜ、映像制作があれほどに好きなのかと。すると、彼の父親がこうおっしゃった。

 「昔、自分が映像を作っていて、作ったのをよく見せてた。そのときみんなで笑いながら見てたから、楽しかった感情が残ってるんだろうね。」

 子供の頃に見ていた父親が楽しそうだと、早めに自分のやりたいことが固まる子供が育つんだろうなと、その話を聞いて思った。ぼくが見てきた父親はずっと生きるのが辛そうだった。自分に置き換えたときに、その背中が見せる姿は子供の未来なのだと思う。

 別にそれが良い悪いという話ではない。ぼくは死にたい人生を歩んできて良かったと思っている。おかげで人の心を推し量る人間になれた。自分を好きになれた。

 父親の背中を見て、自分が何を感じ何を考えて何を選択するか。それが大事なのだと、子供ができたら伝えたい。

台風

 600字作文の更新が滞って3日が経った。なんだかとてつもない開放感に襲われている。生きることに縛りがないって素晴らしい!と感じているが、やっぱり自分との約束は守らなきゃなと思うので、3記事書こうと思う。

 白状させていただくと、記事が滞っているのは台風の影響によるものが大きい。過去最強の台風がきて、その状況を精一杯楽しもうという意識と、停電になったし思いっきり寝ようという甘えに負けて寝たのだ。「台風で何にもできねえ」という大義名分を掲げた睡眠は、とても気持ちの良いものだった。後悔はしていない。

 大規模な台風を受けて自宅が被害を受けた立場としてアドバイスをさせていただきたく思う。まず、窓は閉めているだけでは浸水する。ぜひとも窓枠にタオルを敷いておくことをおすすめしたい。弊宅では、リビングに入った瞬間水で足を滑らせた。

 また、換気扇は布やキッチンペーパーなどで蓋をしておくのがベストである。洗濯物を干す部屋のはとくに。溜まっていたホコリが強風ですべて落ちて、洗濯物に付着してしまった。そのせいで若干匂ってしまった。洗濯をすれば問題ないが、ホコリが溜まった床を見ると若干ショックなので蓋付けをオススメする。

 また、停電が直ってもお湯が出ない。久々にお風呂に入って蛇口をひねり、冷水を浴びながら10分立ち尽くす。そんなことがあった。

 今回のは間違いなく災害レベル”龍”なのでお気をつけてください。

物差

 「お前のモノサシで測るんじゃねーぜ」

 昔、少年サンデーに載っていた『月光条例』という作品の主人公が、そんなセリフを言っていた。当時、親に抱いていた気持ちがどうにも形容できずモヤモヤしていたぼくは、そのセリフに感銘を受けた。

 彼らが彼らの基準で押し付けてくる”良い”をぼくは良いと思わない。ぼくが抱えていたのはそんな気持ちだった。だが、親にそれをうまく伝えることができない。そんなもどかしさをうまく言葉にしてくれたセリフを、当時よく親に使っていた記憶がある。

 最近、世にある美人やブスという基準も誰かのモノサシなのではないだろうかと思う。どんな女性にも魅力があり、それを言葉にしたいと言ったのに対して「ブスを褒めるのは上から目線」的なことを言われてそれを考え、こう思った。美人かブスかなんて自分で決めることも決めないこともでき、美しいと思えないのは自分の目が未熟だからと考えることもできる。それは自分次第だ。ぼくは、この世の全ての美しさを享受したい。いつの間にかもっていた他人のモノサシを使って、目の前の美しさに気づけない人生を歩むのはもったいないなと思うのだ。

 ぼくは、女性という存在に生かされてきた。だから全ての女性を喜ばせたいという気持ちもないではないが、一番は、もっと楽しく生きたい。そのためにより多くの魅力を感じられる人になりたいと思う。世界がもっと輝いて見えるはずだから。

素顔

 人の素を見るのが好きだと何度か書いたことがある。生存戦略として敵対ではなく友好を選択して生きているからかもしれない。ぼくのコミュニケーションはいかに相手の素顔を引き出すかに寄っているなと日々思う。自分の根元にあるのはやはり寂しさで、人とつながっていたい欲求が強いのだ。喧嘩したり言い合ったり激しい自己主張を繰り返した結果何も残らなかった小、中学生時代になんとなくそれを感じ取り、高校でどんなコミュニケーションを取れば自分の寂しさが埋まるのかを具体的に学んだ。その生き方が今も身についている。

 今日ツイッターで「知事選候補者の性癖を知りたい」という旨の投稿をした。これは「偉そうなことを語っているやつらも下劣なやつなんだぜ」と貶めたいのではなく、純粋に「どんな人なのか」を知りたいのだ。性的な話をすると、ぼくは人と仲良くなれる。その人の素直な人となりを知れるから。性癖には、その人がどれほど自分に素直になっているかが反映されると思っている。だからそれを聞けば、その人がどれだけ政治に真剣かが見えると思うのだ。しかも一見ぼくには縁のなさそうな人たちも、性癖を聞けると親近感がわく。その情報をもとにぼくは候補者を選びたい。もちろん政策も今後の沖縄への思いも大事だが、それをやりきらなければ意味がない。だから演説をしている彼らがどこまで素の自分で素直な思いを語っているのか、それを知りたいのだ。

魅力

 ここ数日、性癖の壁がメキメキと広がるのを感じている。様々な魅力を理解し言葉にできる人間になりたいという志は、自分の根っこから出てきたものであるようだ。すれ違うすべての女性の姿を見ながら、それぞれの魅力が何か、プレゼントのような言葉で描き出す努力を無意識にしてしまっている。それはまだ”性的な”という枕詞をもった俗なものであるが、まだ不明確な、しかし大いなる理想を目指すべく何かに導かれるような心地がしている。それは性別を越え、いやむしろ越えないベクトルを生みつつもあるが、また別の話。

 今日は徹夜明けだったせいか、目に映る”膨らみ”や”丸み”のすべてがエロかった。国宝はもとより肉のないマネキン、車のふち、小汚いおっさんの二の腕、すべてにセンサーが反応してしまった。マネキンに至っては何度抱きつこうとしたかわからない。寝不足によるバグの可能性もあるが、ぼくはそれを前進と呼ぼうと思う。マネキンを、車を、おっさんを、未だ性的にとはいえ愛せるかもしれない可能性を得たのだから。

 最近、手フェチという新しい世界を知った。なるほど確かに、手は人生を映す鏡。盲点だった。造形の美しさ、手にした苦悩と喜び。そのすべてをエロスと称する世界を実感できないぼくはまた、扉の前に立っている。

 「人の人生には、いくつもの夢のドアがある」と、ブライアン・Jは言った。そのドアをすべて開けた先に、人類愛の体現を願う。