真面目で優しい人が良いって嘘だからマジで
「真面目に頑張りましょう」とかね、小さい頃から言われてたでしょ?
「真面目で優しい人が得するんです」とかね。
言われてたんですよ。
純真爛漫なチェリーボーイだった少年は、親教師が自信満々に言い切るその言葉をまんまと信じて生きてきたわけです。15年くらい。
ほんと馬鹿。
真面目だから損するってのに気づこうよ。
ちゃんと気づいて人生楽しそうにしてる人いるでしょ?
真面目な人ってさ、あんまり心許せる人がいないと思うの。
真面目ってだけで人間的な部分が見えないしね。相手からすると。
でもさ、なんか無条件で良いものだって信じちゃうじゃない。
悪い要素なんてぱっと見当たらないしさ。
と思ったら大間違いで、真面目な存在を見てみなさいよ。
うんこじゃないっすか。
「人間」という名詞で言い表せちゃう、なんでもない存在じゃないですか。
自分の欲を出して生きてると、固有名詞でしか呼ばない存在になるの。たぶんね。
そういう人生の方が楽しいから。
真面目だからどっかで物足りなさを感じてるし、真面目だから人と比べんの。
真面目だから正解を求めるし、真面目だからつまんないの。ファック。
でも「真面目」ってワードに盲目的だから、そんなのわからないのよね。
わたくしは最近それに気づいたんですけど、すげえ無駄な時間を過ごしてきたなと思ってます。
ずっと持ってた価値観だから根強すぎるので、時間をかけて壊していく所存であります。
というわけでね、できることなら昔の自分に言ってアゲインしたいのですけれど、
真面目になっちゃうと笑えない時間の方が多くなるから、欲望バリバリで生きましょ。
学校でそういう教え方するのもやめよ。
だんだんみんな気づき始めてる事実はちゃんと伝えよ。
こうだったら良さげだよねっていう中途半端な理想で洗脳して死にたい人間増やすのやめよ。
真面目なことに何の価値もありません。
あ、ここで言ってる真面目っていうのは、「思考停止的な『良いこと』を盲信してる様」なので悪しからず。
コツコツ物事を継続するとかいうのは、真面目とは違う能力だと思ってますので。
あと思いやりとか配慮が必要ないとかそんな話でもないですよ。
ああいうのはないと終わりますよね。いろいろ。
まぁ、そんな理想を信じていたい自分もいますけどね。
とりあえずは、最悪です。
ちなみにこの話のソースは僕。
だから要約するとあれですよ、はいはい言う前に疑ってこうぜって話。
ぼくは何がしたいのだろうか
あれがしたい。これがしたい。
いつもそんな言葉を口にするけれど、それは本当にしたいことなのか?
無理をしているのだろうか?
ぼくが本当にしたいことは、ぼくの知識の外にあるのだろうか?
そもそも、やりたいことだけをやるべきなのだろうか?
わがままなのではなかろうか?
でも、自分の心が言っていることに従ってはダメなのだろうか?
こんなことを考えられるということは、
暇なんだね。
とりあえず頑張ろ。
自分にインタビュー「考え方に正解はなくて、人それぞれ信じている原則があるだけ」
松田「松田さんって、昔から『何を信じて生きたらいいかわからない』って思いながら生きてたじゃないですか」
松田「そうですね。親も塾の先生も学校の先生も、じいちゃんばあちゃんも、大学で出会った人たちもみんな、テンでバラバラなことを言っていて、ぼくは何を信じていいのかわからず、迷っていました。それは、ぼくが自分の人生で失敗をしたくなくて、正解を求めていたからです。出会う人に、これからどんな価値観、考え方をもって進んだら正解かを求めていた。」
松田「でも、最近は正解なんてないことに気付かれたんですよね。何があったんですか?」
松田「とくに、この瞬間を機に気付いたというのはないのですが、ライターという道を選んで進んでいく中で、徐々に気付いていきましたね。ライターを始めてから多くの大人の方と、ライターとして、責任を負って仕事をしているという意味での一社会人として話してみると、意外とみなさん迷いながら仕事をされていたんです。成功をおさめているように見える人でも試行錯誤の途中だし、自分で考えて答えを出しながらやってきた結果が今というだけで、みんな途中なんだというふうに思ってからは、正解なんてないのだという証拠探しを始めました。そしたら、誰も自分の人生に対する正解をもっていなかったので、自分も踏ん切りがついた感じですね。正解を人に求めてもないし、自分で作るしかないと。だから今、試行錯誤してみてます。全然結果が出ないのが悔しいですが、この時期を耐えて結果が出ると、大人のみなさんが経験してきたような嬉しさを自分も味わえるんだろうなと思えて楽しみです。」
理解することは、わかること。そのままを認めること。感じること。
ずっと、違和感があったんですよ。
人と一緒にいるはずなのに、いつも一人ぼっちだったから。
考えてみると、理由は簡単でした。
ぼくは誰のことも理解していなかったし、受け入れていなかったから、一人だったんです。
理解というのは、相対するものを自分の解釈に閉じ込めることではなくて、そこに存在するものをわかることだと気づきました。
そこに積極的なスタンスはいらないんです。たぶん。
あるがままを感じて、受け入れればそれでいい。
昔お会いしたアダム・カヘンというファシリテーターが「Understanding is feeling」と言っていましたが、2年経ってようやく言葉の意味がわかりました。
ぼくは、理解しようとしたから排除したんです。
理解しようとする過程で、好き嫌いの判断をして自分の解釈のフィルターにかけ、排除してしまった。
ぼくはただ、わかってあげればよかった。
これからは、そういうスタンスでやっていこうと思います。